(はじめに)(1)(2)(3)(4)(5)(6)(7)(8)(9)(10) 男性編
結婚2年
結婚して1年が過ぎあなたたちには子供が生まれました。
あなたは妊娠がわかったあとも仕事を続けました。なぜならあなたは仕事が好きだったからです。仕事に面白みを感じていました。人間の幅を広げてくれるのが仕事だと思っていました。あなたは出産後にまた働きたい、と思っていました。ですので「育児休暇制度」を利用しました。育児休暇に入る最後の出勤日、同僚たちに見送られあなたはうしろ髪を引かれる思いにかられました。仕事から離れることで自分が社会から取り残されるような不安があったからです。けれど子供を出産することも女性にとって「大切なこと」と自分に言い聞かせていました。
出産も無事終わり、あなたは子育てに夢中になっていました。あなたは新しい発見の連続に驚きとともに感動もしていました。それほど生まれたての赤ちゃんの存在はあなたに新しい世界を開かせてくれました。「子育ては自分育て」、そんな格言を身に染みながら過ごしていました。
子供が1才と少しを過ぎた頃、あなたは会社に復帰する旨を伝えました。上司は喜んで受け入れてくれました。一般の企業の従業員に対する対応を見ていますと「冷たい」印象がありますが、あなたの会社は従業員に「暖かい」会社でした。
育児休暇制度はいろいろな面でとても使い勝手がありました。特にあなたが印象に残っていたのは保育園への手続きです。保育園は容易に入園できるものではないことをあなたは初めて知ります。入園に際しては「働いている証明」が必要でした。母親学級で親しくなった友だちはそのことで悩んでいました。
普通に考えて、働きに出ようと考えている母親は、子供を預かってくれるところが決まってから就職活動を始めようとします。当然です。採用が決まったとしたらすぐに仕事に行くようになるからです。そのときに子供を預かってくれるところがなかったなら母親は仕事になど行けないからです。しかし、保育園の対応は全く反対のシステムでした。仕事が決まっている親の子供しか手続きを進められないのです。あなたの友だちはその点で身動きがとれない状態でした。
それに比べあなたは安心して保育園の手続きを進めることができました。なにしろあなたの仕事先は決まっているのですから。
あなたが仕事を再開するまで、つまりあなたが子育てに専念できた間、ご主人は子育てに協力的でした。仕事で帰りが遅くなっても子供の夜泣きなどのときは率先して子供をあやしたりもしてくれました。早く帰宅できたときはお風呂に入れることもしてくれました。あなたはご主人の子煩悩さに感謝の気持ちを持っていました。
そのような夫婦が協力しての子育てでしたが、あなたが仕事を再開するとお互いの気持ちに少しばかりズレがあるように思い始めました。あなたも仕事に手抜きはしたくないタイプの仕事人間です。いったん仕事に入ってしまうと途中で仕事を中断することに躊躇する気持ちが起こり始めます。会社の業務は同僚全員で仕事の割り振りをしてそれぞれが責任を持って仕事に臨んでいます。そんな中、あなただけが仕事を放り投げ保育園へ子供を迎えに行くことがどうしてできましょう。
そうした気持ちで働いていたあなたに、ある日一つの疑問が浮かび上がりました。
「どうして私だけが保育園に迎えに行かなければならないの?」
あまりにも率直な疑問です。ご主人も働いていますが、あなたもフルタイムで働いているのです。自分だけが損な役回りを押し付けられているような気持ちが生じてきました。
ある日曜日、晩ご飯を食べているとき意を決してあなたはご主人に提案します。
「ねぇ、あなたも保育園に迎えに行ってくれない?」
あなたの唐突な提案にご主人は驚きの表情を隠しません。
「えっ、それは無理だよ。俺の仕事は取引先があっての仕事だから、時間を決めて仕事を終えるなんて不可能だね」
「でも、私だって仕事してるのよ。条件はあなたと同じじゃない」
あなたの反論にご主人はあからさまに不愉快な顔をします。
「男と女は違うんだよ。男のほうが仕事に対する責任は重たいんだから」
あなたはご主人の反応を見てそれ以上話すことをあきらめます。しかし、納得したわけではありませんでした。
それから2週間後、あなたは会社で上司と打ち合わせをしていました。新しいクライアントへの営業戦略を詰めていたのです。そのとき同僚から声がかかります。
「保育園から電話ですけど出られますか?」
あなたは上司の顔色をうかがいながら同僚に言います。
「用件を聞いていただけますか?」
あなたの言葉を聞いて上司は言います。
「ここはいいから電話に出なさい」
電話は、子供が熱を出したことを告げました。「すぐに迎えに来て欲しい」という内容でした。あなたは上司にどのように話そうか悩みます。上司との打ち合わせは最も重要な局面でした。しかし、保育園からの電話は逼迫している様子でした。あなたは正直に上司に話します。結局、打ち合わせは中断しあなたは保育園に急いで向かいました。あなたの救いは上司が「嫌な顔」をしなかったことです。
幸い、子供の熱は大したことはなく医者に連れて行くと夜には熱が下がりました。あなたは安堵しました。もし熱が下がらないときは明日仕事を休まなければならないからです。
深夜遅く帰宅したご主人にあなたは今日のできごとを話します。いえ、正確ではありません。「話した」のではなく「愚痴り」ます。お酒が入って帰宅したご主人はあなたの「愚痴」を黙って聞いてはくれました。しかしなんの反応も示しませんでした。あなたは不満な気持ちのまま眠りにつきます。
それからの数日間、あなたはご主人の子供への接し方に変化があったことに気がつきました。明らかにご主人は子育てに対して距離を置こうとしていました。今までは子供の夜泣きのときはあなたの代わりにあやしてくれることもありましたが、そうした心遣いが一切なくなってしまいました。あなたの考えでは「あなたが保育園への送迎を相談したこと」が影響している、と思っていました。
その後も、1~2週間に1度くらいの割合で仕事中に保育園から電話がかかってきました。そのたびにあなたは同僚や上司に対して後ろめたい気持ちになりました。あなたは少しずつ会社の中で浮いた状態になりつつありました。
そんな日が数日過ぎたある日曜日、あなたは思い余ってご主人にまたもや提案します。
「ねぇ、前にも話したけど子供の保育園の送迎のことだけど…」
「保育園」と聞いただけでご主人は不機嫌な表情になりました。まるでパブロフの犬のように「保育園」という言葉に無条件に拒否反応が起こるようでした。ご主人はあなたを睨みつけるようにして言いました。
「まだ、そんなこと言ってるのか? おまえは子供と仕事どっちが大事なんだ?」
あなたはもちろん子育ての重要性を理解しています。子供にとって今が最も大切な時期です。あなたが母親です。子供を一番大切に思わない母親がいるでしょうか。
それでもあなたはご主人に食い下がります。
「あなたの言いたいこともわかるわ。でも私の気持ちも考えてほしいの」
「お前の気持ち? 子供より仕事のほうが大切だって気持ちか?」
あなたはご主人の嫌味の含まれた言葉に怒りの気持ちが起こります。けれど、自分を抑え努めて穏やかに話します。
「昔と違って、現代は男女平等でしょ。それなら私が仕事に一生懸命打ち込むことも認めてほしいの」
「おまえ、勘違いしてないか? 男女平等は子育てを放棄することじゃないんだぞ!」
そういうとご主人は外に出かけてしまいました。ドアを勢いよく閉めて…。
仕方なくあなたは今まで通り子育てと仕事をやりくりしながら日々を過ごしていました。しかし、実際は「今まで通り」ではありませんでした。ご主人が子育てに全く協力的ではなくなったからです。仕事が終わったあと保育園に迎えに行き、食事の準備をしながら子供の面倒をみて、そして家事をこなす…。あなたは精神的にも肉体的にも限界に近づいていました。
仕事中、集中力が低下しつまらないミスをするようになってしまいました。子供が「絵本を読んで」とせがんできてもつい声を荒げてしまいます。
ある日、会社であなたは上司に会議室に呼ばれます。
「これは人生の先輩として忠告するんだが、仕事を続けるのは無理じゃないか? 最近の君の仕事ぶりは…、なんて言うかいろいろなところに支障をきたすというか…。周りからもいろいろな声が出始めてね…」
あなたはショックを受けます。特に「周りからいろいろな声…」という部分があなたを落ち込ませました。親切そうにしている同僚たちが、本音ではあなたのことを迷惑がっていたのでした。
その日の会社から駅までの帰り道、あなたがうつむき加減に歩いていると派遣で働いている若い男性社員が声をかけてきます。
「今日、課長になんか言われたんじゃないですか?」
その男性社員は派遣でしたが、仕事の能力は高いと評価されていました。本当は教員を目指していたのですが、運悪く希望する地区で空きがなく来年受験するまでのつなぎとして派遣社員をしているのでした。
「ええ、まぁ…」
あなたは言葉を濁すしかありませんでした。正社員であるあなたが派遣社員に愚痴をこぼすことはプライドが許さないのでした。男性は続けます。
「僕、たまたま女性社員の立ち話を聞いたんですけど、独身女性の人たちは結婚して子供がいる主婦の社員を快く思ってないみたいです。結局、仕事のシワ寄せがくるのが不満みたいですよ」
あなたは曖昧な笑顔を返すのが精一杯でした。
電車の中であなたは独り言のようにつぶやきます。
「女の敵は女…」
子供と二人で食事を済ませたあと、あなたは夜遅く帰ってきたご主人に会社での出来事を聞いてもらいます。特に、あなたは「あなたを非難しているのが同性である」ことに少なからずショックを受けたことを強調して話しました。しかし、ご主人の反応はあなたを癒すものではありませんでした。
「そんなの当然だろ。みんな遊びで仕事してるんじゃないんだから余計な仕事を押しつけられたら我慢も限界にくるよ」
あなたはご主人の言葉を聞いてそれ以上話を続ける気持ちにはなりませんでした。
結局、あなたは会社を退職することにしました。ご主人の協力を得られない中、今のような生活を続けることは物理的にも精神的にも不可能だからです。正直な気持ちとしては、専業主婦になることで社会から置き去りにされる悲しさはありました。しかし、ご主人との諍いがなくなることが救いでした。
あなたが専業主婦になったことで、ご主人は以前のように子供と一緒に遊んだりお風呂に入ったりするようになりました。しかし、あなたは以前と感じ方が違っていました。
以前のあなたは、ご主人の子煩悩さはご主人の優しさからくると思っていました。けれど、実際は単なる気まぐれでしかなかったのでした。以前は、あなたも子育てに慣れていず無我夢中でしたのでご主人の本質を見抜くことができないでいたのでした。その当時、あなたはご主人がたまにでも子供をあやしてくれるだけで満足していたのです。
その意味で言いますと、あなたは仕事を辞めて正解だったのかもしれません。あのままの生活を続けていたなら子供に負担をかけることになっていたでしょう。あなたはご主人の気まぐれを補うべく子育てと家事に全精力を傾けました。
そんな生活を続けていたある日。
あなたは風邪をひいてしまいます。しかも悪いことにこじらせてしまいました。あなたは寝込んでしまいます。あなたが寝込むと困るのはお子さんです。「あなたが寝込む」ということは、ご飯の用意をする人がいなくなることですし洗濯をする人がいなくなることです。
あなたはご主人に「できるだけ早く帰宅するように」お願いをします。当初、あなたは寝込んだとしても1日も寝ていたなら治るだろう、と思っていました。しかし、医者の診断では、肺炎の一歩手前まで悪化しているとのことでした。それはつまり、寝込む期間が長引くことを示唆しています。
あなたの症状を聞き、ご主人は二日目も早めに帰宅してはくれました。しかし、機嫌が悪いのは明らかでした。あなたが日々行っていた家事をご主人がやらなければならなかったからです。
とうとう、三日目。
ご主人の帰宅は深夜になりました。仕方なくあなたは覚束ない足取りで立ち上がりやっとの思いでご飯の用意をしました。そして、子供にご飯を食べさせるとすぐに寝床に入りました。ご主人はなかなか帰ってきませんでした。あなたが待ちくたびれ疲れきって、ウトウトしていた深夜遅く玄関を開ける音がしました。あなたは漸く安心して眠りにつくことができると安堵しました。
あなたには台所から物音がするのが聞こえました。あなたは想像します。ご主人が台所を片付けてくれているのではないか…、と。台所には、あなたと子供が食べ終わった食器が残されたままだったからです。
あなたはご主人が寝室に来るのを待ちます。
少ししてご主人の寝室に近づいてくる足音が聞こえました。寝室の前で止まったのがわかります。そしてドアが少し開き、ご主人が顔だけを覗かせて言いました。
「おまえ、ご飯の用意したのか? 本当は病気じゃないんじゃないか」
翌朝早く、あなたは実家の母に電話をしました。
「助けて…」
あなたはこうやって結婚生活に失敗します。
男女平等が叫ばれる今の時代でも女性だけに負担を押し付ける男性はいるものです。それは時代に関係なく、個人の資質によるものです。結婚は二人で支えあって初めて成り立つ共同生活です。それができない相手と結婚をしてもうまくいくはずはありません。
また、一見、優しそうに見えた相手もある期間一緒に暮らしてみなければ本質まではわかりません。仮に、結婚前に「相手の本質を見抜いている」と確信を持っていたとしてもなにかのきっかけで本質が変わってしまうこともあります。人間はときの流れとともに「変わるものだ」と覚悟していることが必要です。
第4回終了。