(はじめに)(1)(2)(3)(4)(5)(6)(7)(8)(9)(10) 男性編
結婚20年
結婚するとき、あなたたちは周りから「理想的なカップル」と賞賛されました。ご主人は将来有望な有能な若手と言われていましたし、あなたもバリバリのキャリアウーマンとして男性同僚からも一目置かれる存在でした。
あれからあなたたちは20年間ともに暮らしてきました。
あなたたちが知り合ったきっかけは仕事でした。ある企業が新しいプロジェクトを立ち上げることになり、そのために集められたグループで一緒になったのが初対面でした。つまりあなたとご主人の関係は企業の担当者とそこにコンサルタント会社から派遣されたコンサルタントという関係でした。
あなたはコンサルタント会社から派遣されたコンサルタントとしてご主人の会社の仕事をお手伝いすることになったのです。初めて会ったとき、あなたは特段ご主人に惹かれたわけではありません。しかしご主人はあなたを一目見て気に入ったようでした。
プロジェクトが進み、時間が経つにつれ、あなたはご主人の人柄に惹かれていきます。会議などで幾度も接しているうちに、ほかの社員に比べて人間的な優しさが溢れていることを感じることが多かったからです。
一般的に、取引先の社員の人たちはコンサルタントに対して好意的ではありません。理由は、企業の上層部が考えていることと現場の社員が考えていることに隔たりがあるからです。企業は少しでも業績を伸ばすためにコンサルタント会社と契約し、コンサルタントの力を借りようと考えます。しかし、現場で働いている社員たちからしてみますと、「なぜ、社内の人材を使わずに外部に頼るのか?」といった不信感があるからです。そうした社員たちの気持ちがコンサルタントに反発心としてぶつけられるからです。
コンサルタントは3人派遣されていました。あなたはその一番下っ端でした。対して取引先の担当者は総勢7名いました。人数の割合からいいますと担当者たちのほうが立場が強そうですが、現実は担当者たちはコンサルタントの部下のような立ち位置になっていました。そうした状況も担当者たちがコンサルタントに反発する原因でした。あなたの目からみて担当者たちと先輩コンサルタントの反目する雰囲気は不安感を持たせました。
「こんな状態で満足のいく結果が得られるのだろうか?」
あなたの素朴な疑問でした。そんな担当者たちと先輩コンサルタントの関係の中であなたの救いは今のご主人の寛容さでした。反発ばかりして力を合わせようとしない担当者たちをなんとかなだめ前に進めようとするご主人があなたにはとても包容力のある人に見えたのでした。
いろいろと大変な局面は何度もありましたが、最終的には、プロジェクトはなんとか上層部の評価を得られる結果で終えることができました。あなたは心の中で「この高評価は、ご主人の努力の賜物だ」と思っていました。その解散式のあとあなたはご主人に声をかけられます。
「今度、食事でもどうですか?」
デートでは主にビジネスに関連する話題が多かったこともあなたを満足させました。コンサルタント会社に勤めているあなたですから仕事に対する思い入れがほかの同年代の女性より強かったのです。あなたは無我夢中で仕事にまい進していました。今まで知らなかった世界を知ることはとても興奮することでした。そんなあなたにご主人がいろいろなことを教えてくれました。あなたはデートのたびにご主人を尊敬の眼差しで見ていました。
あれから20年。
いろいろなことがありました。子供が生まれ子育てに追われ生活に追われ毎日を奮闘しながらあなたたちは20年を過ごしてきました。その間、あなたは仕事を休んだのは上の子を出産したとき、下の子を出産したときの合わせて1年間だけでした。あなたは出産のあと半年後には仕事に復帰していたのです。あなたは有能なキャリアウーマンだったからです。
実は、あなたたちはここ5~6年夫婦ではありませんでした。住民票の住所は同じでしたが、夫婦ではありませんでした。同居人でした。それはあなたが仕事に忙しく、土日も仕事に関連する外出があったりしてすれ違うことが多かったからです。
そのような状態が数年続いていた結果、あなたはいつの間にか社会的地位がご主人より高くなっていました。具体的に言いますと、会社での肩書きがご主人より責任の重い役職になり、会社以外の場所でも社会人としてあなたのほうが尊敬され優遇される機会が多くなっていることでした。それはつまりあなたのほうがご主人より収入が多いことを意味しています。
あなたのキャリアは素晴らしいものがありました。時代がそうさせたとも言えますが、あなたは自分の努力の賜物とも自負していました。あなたは努力家と言われるのがなによりもうれしい褒め言葉でした。あなたは、座右の銘を聞かれると決まって「努力する天才になりたい」と答えていました。
コンサルタント業という業界をビジネス界が求めていました。あなたはその追い風に乗ってビジネス界を思う存分泳ぎ回っていたのです。そして業界では知らぬものがいないほどのキャリアを得ていました。しかし、仕事が順調になればなるほどあなたの結婚生活は不調になっていきました。
あなたは自分の収入がご主人を上回っていることをご主人が知った日のことが忘れられません。
あなたたちは共働きでしたので家計費は半々でまかなっていました。1ヶ月に必要な生活費を毎月お互いが等しく出していたのです。このことはつまり生活費に出すお金以外はそれぞれが自由に使ってもよいことを意味します。そしてそれはまた、お互いが相手のお給料の額を知らないことでもありました。
その日はご主人の学生時代の親友が自宅に遊びに来ていました。結婚式にも出席してくれた親友です。ご主人は年に数回はその友人と会食をしていたようですが、その日はご主人の「たまには自宅に招こう」という提案で奥さん同伴で来訪していました。
食事を楽しい雰囲気で終え、ワインを飲みながら歓談していたときです。なにかの話から家計について話が及びました。親友の家は旦那さんだけの収入で生活をしているそうです。親友は「共働きだとダブルインカムだから貯金がたくさんあるんだろ」などと羨ましそうに話しました。ご主人も親友ですので隠し事をする必要もなく笑顔で答えていました。そんな話の展開からご主人は自分のお給料の額を皆の前で発表しました。親友夫婦は「おお!」などとふざけ半分に驚いてくれました。ご主人自身も発表するくらいですからそれなりに自信があったのです。ご主人の「まんざらでもない」表情につられてあなたも軽い気持ちで自分の収入を発表することにしました。あなたはご主人の給料額を聞きましたので自分のほうが多いことはわかっていました。あなたは自分が発表することでその場がもっと盛り上がることを想像しました。あなたが発表した瞬間、あなたはみながご主人のときと同じように「おお!」と感嘆してくれることを期待していました。もしかすると「指笛までなるかも」などと考えていました。
いよいよあなたは盛り上がった雰囲気に合わせ、焦らすように時間を伸ばしたあとワイングラスを高らかに掲げ声高らかに給料額を発表しました。そして一気にワインを飲み干しグラスをテーブルに置きました。しかし、そのときあなたはそれまでと違うなにかを感じました。あなたが想像していた雰囲気と違うのです。つい先ほどまでの雰囲気と空気が違っていたのです。もちろん「おお!」も「指笛」もありません。空気が固まっていました。沈黙が漂っていました。
あなたは思わずご主人の顔を見ました。ご主人の表情が強張っているのがわかりました。そして「親友は」と言えば驚いてはいるのですが、その場を盛り上げる「驚き」ではなかったのです。沈黙のあと親友がご主人をチラッと見たのに気づきました。
空気が固まったのに気がついた親友の奥さんがすぐに話題を変えたのでその場はことなきを得ることができました。その後も語らいは続きましたが、ギクシャクした雰囲気は否めず、その後お給料の話題は一度も出なかったのは当然です。
親友夫婦が帰ったあとあなたは後片付けをしていました。食器を洗っているあなたの背にご主人の視線が注がれていたのをあなたは気がついていました。いつもならご主人は食器の後片付けを手伝ってくれていました。共働き夫婦の当然の行いとご主人は常々言っていました。けれどその日はすぐに寝室に入ってしまいました。
翌日、あなたは勤務時間中も昨晩のご主人の反応が気になって仕方ありませんでした。あなたは自分の給料を発表したことを後悔していました。
会議が終わったあと書類を整理していると会議で進行役をしていた係長が入室してきました。会議室の後片付けにやってきたのです。係長は最近結婚したばかりで新婚です。あなたは机の位置を戻している係長に話しかけます。
「どう? 新婚生活の具合は?」
係長は照れながら「幸せです」と答えました。
「係長の奥さんは働いてるの?」
「いえ、私は亭主関白を信条にしていますので私だけのお給料でやりくりしてもらうつもりです」
あなたはゆっくりと小さな声でなぞります。
「て・い・しゅ・か・ん・ぱ・く、か…」
あなたのつぶやきに係長が尋ねてきました。
「今どき、古いですかね…」
「いいえぇ、そんなことはないわよ。…ねぇ、もし、もしよ。奥さんが旦那さんより収入が多かったら亭主関白はどんな気分かな…」
係長は首を少しかしげ考えました。
「そうですねぇ。やっぱり亭主関白はプライドが高いですからそれは許せないですよね」
そう言うと子供のような笑顔を見せました。そして最後の机を戻し終えるとドアに向かい、ドアのノブに手をかけるとあなたのほうへ向き直りました。
「あのぉ、こういうことを言うと怒られるかもしれないんですけど…。もし私だったら取締役とは結婚できないですね。だって、自分の女房が自分より偉いなんて男としてのプライドが許せないですよ。あ、ちょっと余計なこと言っちゃいました」
あなたは心の中では動揺しながらも微笑を絶やさず言葉を返します。
「いいのよ。私も自分が男だったら私とは結婚しないから」
係長は軽く会釈をすると部屋を出て行きました。
ご主人の親友が遊びに来た日以来、あなたとご主人の関係はスムーズではありませんでした。表立っていがみ合っているわけではないのですが、あなたたちの間には、どこかよそよそしい雰囲気が流れていました。会話がないこともないのですが、以前のように続かないのです。一言二言のやりとりで終わってしまっていました。
そんな日が続いた月末、あなたはご主人が負担する生活費の分を貰っていないことに気がつきました。今までそんなことは一度もなかったのですが、今月はまだご主人が渡してくれていませんでした。
その日、ご主人はアルコールの臭いを漂わせて帰ってきました。ご主人はほろ酔い気分で台所に行くと水を一気に飲み干しました。そんなご主人にあなたは声をかけます。
「今月分の生活費、まだよね」
あなたの声にご主人はなにも答えませんでした。あなたのほうを一度も見ることなく、ご主人はコップを置くとあなたの横を通り過ぎようとしました。あなたは先ほどよりも大きめの声で同じ言葉をご主人に投げかけます。
「生活費、まだよね」
あなたの再度の言葉にご主人は一瞬立ち止まりましたが、そのままドアを開け立ち去ってしまいました。あなたは立ち去ったドアをしばらく見つめていました。見つめながらそのときあなたは会議室での係長の言葉を思い出していたのです…。
「自分の女房が自分より偉いなんて男としてのプライドが許せないですよ」
翌週、ご主人は仕事帰りに飲んだあと会社の部下を連れてきました。以前、あなたはご主人から幾人かの部下の話を聞いたことがあります。ご主人は部下に対して厳しい上司のようであなたにしきりと部下の問題点などを話していました。その日連れてきた部下はご主人から聞いたことがある名前の人でした。
あなたは本心では、ご主人が部下をつれてきたことを快く思っていませんでした。あなたは翌日の準備も終え寝支度をしていたからです。それでも、あなたは気持ちを切り替え部下の人を笑顔で迎えました。ご主人はソファにだらしなく座ると部下の人にあなたを紹介しました。
「俺より偉い俺の女房」
ご主人は酔っているようでいつもより高い声で抑揚のある口調で部下に話しました。あなたは「偉い」という言葉に棘があるように感じましたが、無視するようにご主人の言葉につなげます。
「すみませんねぇ。こんなになるまで飲んで。ご迷惑おかけいたしました」
部下の人はただ恐縮するばかりでした。
「いいえ、僕のほうこそいつも課長にはお世話になってばかりで…」
部下の言葉にご主人が続けます。
「おい、俺は課長だけど女房は取締役だからな。言葉には気をつけるんだぞ」
部下の人もどう対応してよいのかわからず困っているようでした。その様子を見たご主人はあなたに言います。
「ほら、おまえが『偉い』から緊張してるじゃないか。もう寝ていいぞ。あとは俺がやるから」
あなたはご主人の棘のある話し方に穏やかな気持ちではいられませんでしたが、部下の人に笑顔で挨拶をして寝室に向かいました。もちろんすぐに寝付けたわけではありません。ご主人の言葉の棘があなたの心に刺さったままだったからです。
次の日曜日。
ご主人は朝早くからゴルフに行く準備をしていました。しかしその日は夫婦揃ってあなたの実家の法事に行く予定のはずでした。あなたは1カ月前にご主人に話をしていました。あなたはご主人に声をかけます。
「あら、今日ゴルフなの?」
「ああ、課長でもゴルフはやるんだ」
ご主人の棘のある返事にあなたは苛立ちます。これまでなら我慢して聞き流していたでしょう。しかし、そのときのあなたは今までのストレスが積み重なっていました。あの晩以来、ご主人が嫌味で棘のある言葉を度々吐いていたからです。あなたは、つい強い口調で言ってしまいました。
「あなた、最近棘のある言い方が多すぎるわよ!」
ご主人はあなたを睨みつけるようにしましたがなにも言いません。あなたはさらに続けます。
「今日の法事は前々から話していたでしょ!」
あなたの荒々しい口調に、ご主人は反発するかのように大声で言い返してきました。
「そうか、そうだよな。おまえのほうが偉いんだからおまえの言うとおりにしなきゃだめだよな」
「なによ! その言い方!」
「それはおまえのほうだろ! その言い方が夫に対する言い方か! 会社で偉いからって家でも偉そうにしてるんじゃないよ!」
売り言葉に買い言葉…。あなたは涙が溢れてくるのをこらえ切れませんでした。
「私のどこが偉そうにしてるのよ。私だって仕事で辛いことだってあるのよ。それでも家族のためと思って頑張って必死に働いてきたんじゃない」
怒りで怒りが増幅されることがあります。ご主人はそのパターンにはまっていました。
「俺だっておまえに負けないぐらい必死に働いてきたんだ。給料が俺より多いからっていばってるんじゃないよ」
あなたは悔しさでさらに涙が止まらなくなりました。
「私の給料があなたより多いからってひがんでどうするの? あなたそれでも男? だいたい私たち家族がこうして人並みに暮らせるのは私の稼ぎが多いからなのよ!」
あなたはこの台詞を言った瞬間、空気が止まったのがわかりました。あなたは言ってはいけないことを言ってしまったのです。いくら喧嘩言葉とはいえ、言ってはいけないことがあります。人間は他人から言われて一生心に残る台詞というものがあります。ご主人にとってはあなたの言葉がそうでした。
ご主人はあなたの言葉に一瞬当惑しそして押し黙ってしまいました。しばらくあなたを見つめたあとなにも持たずに家を出ていきました。
あなたはこうやって結婚生活に失敗します。
結婚しても忘れてはいけません。親子には「血のつながり」という切ってもきれないつながりがありますが、夫婦は結婚という契約がなければなんのつながりもない他人なのです。どれほど仲睦まじい夫婦でも、究極的には「一番近い他人」と心に刻んでおきましょう。
第9回終了。