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あなたはこうやって結婚生活に失敗する(18)

11)(12)(13)(14)(15)(16)(17)(18)(あとがき) 女性編

結婚28年

「話があるんだ」

今日は娘さんの結婚式でした。披露宴も無事に済み、親戚縁者とのあいさつも終え夜遅くに自宅に戻ってきました。さすがに今日一日は神経を使い、あなたも奥さんも疲れていました。家に着き着替えを済ませやっとくつろぐ時間を持てました。それは奥さんも同様で家に着くなり大きなため息をついたのは奥さんのほうでした。

あなたがリビングに座っていると奥さんがお茶を持ってきてくれました。二人して式や披露宴での出来事を思い出しながら語り合いました。そして次第に話題は昔話に移っていきました。娘さんが幼かった頃のこと。小学校のとき学校に「行きたくない」と突然言い出し、親として戸惑ったこと。中学に入り反抗期だった頃のこと。高校の部活の悩みで相談に乗ったときのこと。大学進学について意見が対立したときのこと。今まで家族で過ごしてきたたくさんの思い出に話が尽きませんでした。

そうやって夫婦で楽しい家族の思い出話を語り終わった頃。そうです。時計の針は深夜1時を指していました。思い出話に一区切りがついたとき、あなたたちはお互いに黙り込んでしまいました。

どうでしょう。1分くらいの沈黙でしょうか。もしかしたらもっと長かったかもしれません。あなたはあらたまって奥さんに向き直り「話があるんだ」と話しかけたのでした。

あなたは、急にあらたまって話しかけたことで「奥さんが戸惑う」と予想していました。しかし、奥さんの返事のほうが、あなたを戸惑わせるものでした。

「私もなの」

あなたは思わず声を発してしまいました。

「えっ?」

あなたが最初に戸惑ったのは奥さんの「言葉に対して」でしたが、本当の意味で戸惑ったのは言葉を発したときの奥さんの態度でした。奥さんの態度が毅然として落ち着き払っていたからです。あなたの戸惑っている様子を見た奥さんは微笑みながら言いました。

「どっちが先に話す?」

あなたがうろたえ返事をしないでいると奥さんが促しました。

「あなたからでいいわよ」

あなたは明らかに困惑していました。本来なら、あなたが奥さんを「驚かせまい」と落ち着き払った態度で接するつもりでした。しかし、状況は反対になっています。

その日、つまり娘さんの結婚式の当日、あなたは奥さんに「離婚」の話をする予定でした。これといった特別な理由はありません。奥さんに対して強い不満があったわけでも恨みがあったわけでもありません。奥さんと一緒に暮らしてきたこの約30年、辛いことも嫌なこともありましたが、トータルでみるとあなたにとって満足できる幸せな生活でした。それでもあなたは「離婚」を考えていました。

「実…は…、じ…つ…は…」

あなたは困惑から躊躇いの気持ちが強くなっていて言葉が続きません。奥さんはあなたの口元を見つめています。

「なあに?」

あなたは、奥さんにあらたまって質問されるとやはり切り出すことができません。奥さんは黙ってあなたの言葉を待っていましたが、あなたが言いよどんでいるようすに自分から口を開きます。

「じゃぁ、わたしから話そうかな…」

奥さんがそう言ったときあなたは安堵の表情をしたのでしょう。それを見た奥さんは言葉を続けました。

「驚かないでね。私…、離婚したいの」

あなたは思わず奥さんの顔を見つめます。そして先ほどと同じ声を発してしまいます。

「えっ?」

奥さんは表情を変えずにもう一度繰り返します。

「あなたと離婚したいの」

最初の予定では、あなたが奥さんに「離婚」の話をしようと思っていました。ところが現実は、奥さんがあなたに「離婚」の二文字を口にしているのです。あなたは思わず尋ねます。

「どうして?」

あなたはそう言ったあと、不思議な気持ちになりました。本当はあなたが「離婚話」を切り出し、それに驚いた奥さんがあなたに「どうして?」と尋ねてくるはずだったからです。もちろん、あなたは奥さんに尋ねられたときの答えも用意していました。ですが、現状は反対になっていました。

奥さんは、あなたの問いかけにあわてるでもなく淡々と答えてくれました。その間、あなたは黙って聞いているだけでした。あなたは奥さんの離婚の理由を聞けば聞くほど不思議な気分に浸っていきました。話の内容が、あなたが用意をしていた答えとほぼ同じだったからです。敢えて違いを探すなら、会社から奥さんに転勤の打診があることでした。しかも栄転です。営業所の所長というポストが用意されているようでした。

奥さんの話の途中、幾度かあなたはつい表情が緩んでしまいました。あまりにも似ていたからです。あなたの緩んだ表情を見て奥さんが怪訝に思っても当然です。

「あなた、どうしたの?」

あなたは「なんでもない」と言い、奥さんに話を続けてもらいました。

1時間ほど奥さんが話したあと、奥さんが尋ねます。

「大丈夫?」

それまでうつむいて聞いていたあなたは答えます。

「ああ。おまえの話はわかった。でも返事は少し待ってくれないか?」

こう答えながら、あなたはやはり不思議な気分になっています。本当は、離婚はあなたも望んでいたことだからです。それなのに「待ってくれないか」という自分…。

結局、その日はそれ以上の話の進展はなく後日結論を出すことで終わりました。

あなたが席を立とうとしたとき、奥さんが思い出したように尋ねます。

「あなたの話はなんだったの?」

あなたは立ち上がりながら答えます。

「俺の話か? それはもういいんだ。…それにしても今日の結婚式はよかったよな」

あなたの的外れな返事に少し奇妙な表情をした奥さんでしたが、それ以上問い詰めることはありませんでした。

あなたは寝床に入りながら考えます。

あなたが離婚を考えるようになったのは数年前からでした。理由は、奥さんと同じです。特別な理由はありません。敢えて言えば、そして誰からも顰蹙を買わないなら「なんとなく」です。しかし、世間というか周りの人たちは「なんとなく」という理由では納得してくれないでしょう。確固たる理由を知り安心したがるものです。この理由で納得してくれるのは奥さんだけかもしれないのは皮肉でした。

もし週刊誌の記者やワイドショーのレポーターがいたなら、「きっかけ」を追求してくるでしょう。確固たる理由がないなら、せめて「きっかけ」だけでも知りたいと思うのは第三者の普通の感覚です。第三者という人たちは当人よりくっきりとした輪郭を求めるものです。誰もが納得できる解答を探し出すのが第三者の習性だからです。

けれど、その「きっかけ」も確かなものがないのが真実です。ただ漠然とだからです。そのことについても、皮肉になってしまいますが、理解してくれるのは奥さんだけかもしれません。

そんなことを考えながらあなたは眠りにつきました。

翌日から、あなたは通勤時間中に、仕事の合間に、「離婚」の二文字が頭から離れません。いえ、仕事中も離れませんでした。もし、あなたの予定どおり、奥さんからでなくあなたから「離婚」の二文字を言い出したならこれほど悩むことはなかったでしょう。あなたは奥さんの真意を計りかねていました。

あいつはなぜ…。

そう考えると、自ずとあなたは自分の気持ちと向き合わざるを得なくなります。

俺はなぜ離婚を考えたのか…?

あなたは一人になりたかったのです。奥さんを嫌いになったわけではありません。確かに半世紀以上も一緒にいたのですから言い争いは数え切れないほどありました。ときには数日家に帰らないこともありました。それでも最後は元の鞘に収まっていました。つまり最終的には奥さんと一緒にいることを選択していたのです。そういうときあなたはいつも自分に言い聞かせていました。子供もいるし、これでいいんだよな…。

だからこそあなたは娘さんが嫁いだあと離婚を考えたのでした。子供です。一つの家族を作ったならそれを壊すことに罪悪感があったのです。その子供が成人し独立したならあなたは自由に生きることができるのです。数年前、あなたは娘さんが嫁ぐ日を自分が「自由になれる日」と決めていました。あなたが「一人になりたい」と思ったのは自由になりたかったからでした。

数日後、あなたは会社近くの喫茶店にいました。その喫茶店は勤務時間中にあなたがよく利用する喫茶店です。仕事で行き詰ったとき、一人で考えたいとき、気分転換をしたいときに通っていました。

その日も、その喫茶店にいるのに相応しい心持ちでいつもの席に座っていました。窓際の席です。あなたはコーヒーをひと口飲むと煙草に火を点け窓の外を見ました。多くの人に混じって若い恋人同士と思えるカップルも歩いています。

「俺にもあんな時代が…」

あなたは奥さんとつき合っていた当時のことを思い出しました。あの頃、あなたは奥さんと一緒にいるだけで幸せでした。まだ収入も少なく将来に不安もありましたが、それでも奥さんと一緒にいられるだけで満足でした。それは奥さんも同じでした。奥さんは、「もし、あなたが病気になって働けなくなったら私が養ってあげるね」などとうれしそうに話していたものです。そんなあなたたちがもうじき30年を迎えようとする今、お互いに離婚を考えているのです。しかも、確たる理由もなく…。

あなたは煙草を大きく吸い吐き出すと視線を店内に移します。この喫茶店の空間は広すぎることもなく狭すぎることもなくあなたが最も心地よくなる広さでした。広すぎるならビジネスマンふうのお客が利用することが多くなり、狭すぎるなら常連客で固められてしまうからです。あなたはこの広さが一番くつろげる空間でした。

あなたの席はいつも窓際ですが、その席から見て斜め向かいの端のテーブルに座っている老女が目に入りました。あなたが喫茶店にいるときにたまに見かける老女です。しかし、今まであなたが見かけていたときは二人連れでした。いつもご主人と思われる男性と向かい合って座っていたのです。老女が一人で座っているのを見るのは初めてでした。

あなたはこの老夫婦をいつも気に止めていました。それは、喫茶店にいる間、ほとんど会話をしないからです。ご主人は新聞を読んでいるか、そうでないときは本を読んでいました。奥さんのほうはただ背を丸め静かに座っているだけです。どこを見るでもなくただ座っていました。あなたはその二人の様子をみていつも思っていました。

「あれで、楽しいのかな…」

娘さんの結婚式の夜。そうです。あなたが、ではなく、奥さんが離婚の話を切り出して以来、あなたと奥さんの二人の関係に微妙な空気が流れていました。決して険悪な空気ではないのですが、和やかという空気でもありません。強いて言えば、事務的な空気とでも言いましょうか…。

まるで示し合わせたかのように、あなたも奥さんも「離婚」については触れないでいました。あなたがまだ結論が出ていなかったからです。もしかしたら、奥さんも同じかもしれません。奥さんは自分から言い出したのですが、確たる理由がないのですから気持ちに変化があってもおかしくはありません。あなたはそう思っていました。

あなたがリビングのソファに座って新聞を読んでいると奥さんがやってきました。手にはA4ほどの大きさの用紙を持っています。ソファに座るとテーブルに用紙を置きボールペンで書き込みはじめました。書き終えると、CDをかけに立ち上がりました。スピーカーから流れてきたのは、奥さんが好きな徳永英明の歌です。しばらくすると、あなたが新聞のページをめくるのをまっていたかのように話しかけてきました。

「ねぇ、私じゃなくても『誰でもよかった』ってことある?」

あなたは、突然の問いかけに新聞をめくる手を止め奥さんの顔を見ました。奥さんは半分笑っているようにも見えました。

「う~ん、どうかなぁ。やってみないとわからないってとこあるから…。おまえのほうこそどうなんだ? 俺じゃなくてもよかったのか?」

「私はあなたでよかったわ、本当よ。…離婚のことだけど、本当に特別な理由はないの。ただ自由になりたいだけだから。気分悪くしないでね」

あなたは二、三度軽く頷きます。しかし、まだ離婚について結論を出す気分にはなっていませんでした。あなたは奥さんが書いていた用紙に目をやります。

「なに? それ」

「会社に提出する引越し申請書。まだ、正式な引越し先は決まってないんだけど『現住所』だけは書いておこうと思って」

あなたは用紙を覗きこみました。

新住所:

現住所:神奈川県富士見市横川町3の22の17

「へぇ~、おまえの会社って親切なんだな。引越しの面倒までみてくれるんだ」

「一応、私、幹部だから」

茶目っ気な笑いをしながら奥さんが答えました。あなたも奥さんに合わせるように笑って応えました。あなたは笑いながら頭の中では違うことを考えていました。

こうして二人が笑い合っている様を他人が見たら離婚を考えている夫婦には見えないだろうな…。しかも、そのときに流れていた曲名は「love is all」…。

「愛が全て」…か。

翌日、いつもの喫茶店に行くと珍しく席が埋まっていました。あなたは入口付近で店内を見渡します。普段ですと、あなたが行く時間に席が満杯であることはありません。あなたが席を探していると店の従業員が声をかけてきました。

「申し訳ありません。今日はこの近くで集まりがあったみたいでその関連の人たちが流れてきたんですよ」

「そっか。じゃ、仕方ないからまた…」

あなたが店を出ようとしたとき、あなたが立っている横の席から声がしました。

「よかったら相席でもいいですよ」

声の主を見ると、あなたが以前から気になっていた老女でした。あなたは老女の勧めに甘えて相席をすることにしました。

普通、見知らぬ人と相席になると気を使うものです。しかし、その老女はあなたにとって「見知らぬ」人ではありませんでした。あなたはお礼を言いながら老女の向かいに座りました。

相席をしたからと言って、必ずなにかを話さなければいけない、ということはありません。たまたま相席になっただけなのですから話す義務などありません。あなたは席の横の棚に置いてある新聞に手を伸ばしました。

あなたは新聞を読んではいましたが、意識は老女に向いていました。

いつも遠くから見ていましたので、これほど近くで見るのは初めてです。年の頃は70才半ばくらいでしょうか。そんなことを想像していました。

ウェイトレスがコーヒーを運んできました。あなたは新聞を膝の上に置き、ウェイトレスがコーヒーカップをテーブルに置くのを見ていました。そのとき、なにとはなしに老女と目が合いました。あなたは軽く会釈をします。老女は柔和な表情で返し、あなたのコーヒーを見ながら話しかけます。

「いつも同じものですねぇ」

「ご存知ですか? なんか恥ずかしいな」

「いつもあそこに座ってらっしゃいますよね」

老女はそう言いながらあなたがいつも座っている席のほうに指の先を向けました。あなたは指を向けられたほうに上半身を少し向け、そして元に戻すと老女に微笑みます。

「そうなんですよ。私の特等席を今日はとられちゃって…」

「たまにはこんなおばあちゃんと相席もよろしいんじゃないですか?」

あなたは冗談を言う老女に少し驚きます。いつもあなたが離れたところから見ていた老女の印象とは違っていたからです。ご主人と思しき男性と一緒に座っているときの老女は無口で人見知りをする感じがしていました。老女が親しげに話すのにつられあなたもつい質問してしまいます。

「いつも一緒にいらっしゃる男性はご主人ですか?」

「ええ、50年以上連れ添いましたけど、この前亡くなったんです」

自分の夫の死亡をさらりと話す老女に人生を達観した雰囲気を感じながらもあなたは不躾な質問をしたことを詫びました。そんな質問にも気さくに答えてくれた老女と、結局、あなたは30分以上話し込んでしまいました。

老女の名前は「キヌ」さんでした。ご主人とは亡くなるまで都合53年間暮らしていたそうです。あなたはそのコツを尋ねましたが、返ってきた答えはたったの一言でした。

「ない」

あなたは喫茶店からの帰り道、その一言を繰り返します。

「ない…」。

その日、奥さんと晩ご飯を食べていると、奥さんが世間話でもするように言います。

「今度の転勤先、なかなか決まらなくて…」

あなたには、奥さんができるだけさらりとした口調で話をしようとしていたのがわかりました。やはりどこかぎこちなさがあったからです。奥さんの転勤は、奥さんが離婚を考えるようになったきっかけの一つでした。その転勤先が決まらないのですから、「ぎこちなさ」があったとしても不思議ではありません。

あなたは、奥さんが「意を決して」話したことを感じてはいましたが、そんなことはおくびにも出さず、あなたもできるだけ世間話をするように答えます。

「そうか、決まったら教えてくれよ」

あなたが軽く受けてくれたことが奥さんはうれしかったのでしょう。冗談交じりのような口ぶりでいいます。

「あなた、離婚の件だけど、決断できた?」

「ああ、あと少し心の整理に時間をくれないか?」

心の整理…。

あなたは自分の口から出た言葉に思い惑っていました。離婚について最初に話し合ったとき、すでにあなたは「心の整理」ができていたからです。もし、あのときあなたが先に話をしていたなら「心の整理」を口に出していたでしょう。人生とはおかしなものです。

夜寝るとき、あなたは昼間の老女の話を思い出します。

キヌさんは結婚式を挙げるまで、夫となるべき人の性格はおろか顔も知らずにいたのでした。テレビなどで、昔の結婚事情を聞くとき、そのような話を聞いたことはありますが、実際に身を持って体験した人から直接聞いたのは初めてです。

それでよく50年以上も一緒に暮らしていたよなぁ…。

あなたの正直な感想でした。

二日後、取引先からの帰り。駅から会社に向かっている途中に強い雨が降りだしました。あなたは近くの建物の軒先下に駆け込みます。道行く人たちを見ますと、突然の雨でしたので通行人がみな小走りしていました。そんな通りを眺めたあと、横を見ますと少し離れた場所にあなたと同じように雨宿りをしている老女がいました。老女は空を見上げていました。見覚えのある顔です。

…キヌさんでした。

あなたは小さく声をかけます。

「こんにちは」

あなたの声に驚いたようすのキヌさんでしたが、あなたと気づくと腰を折り笑顔を返してくれました。あなたはキヌさんのほうへ数歩近寄りました。

「この前はどうも。…それにしてもすごい雨ですね」

「ホントですねぇ。突然で…」

二人して空を見上げました。しばらく沈黙がありました。雨が強くアスファルトを打ち据えていました。あなたは話しかけます。

「あの…、また不躾な質問で恐縮なんですけど…ご主人と結婚して幸せでしたか?」

あなたの不躾な質問に、キヌさんは一度はあなたのほうへ顔を向けましたが、すぐに正面に向き直り雨を見ながら答えました。

「幸せ、ですか…。どうですかねぇ…」

キヌさんはそう答えると口をつぐんでしまいました。あなたは、そのあとにキヌさんの口から続いて出てくる言葉を待っていましたが、それ以上言葉は続きませんでした。キヌさんはただ雨を眺めているだけでした。

あなたも、答えになっていない答えにどのように対応してよいかわからず黙ったままです。しばらくして、あなたはまた尋ねました。

「53年間に、離婚を考えたことありませんでしたか?」

「離婚…。あるかもしれないし、ないかもしれないし…」

またしても、答えになっていない答えです。あなたは少し苛立ちを感じます。

「顔も性格も知らない人と結婚して、愛情はあったんですか?」

「愛情…、自分でもわからないですねぇ…」

あなたは続けざまに質問を繰り出しました。

「結婚して相手に縛られてると感じたことはありませんか? 私は縛られてるのが嫌で自由になりたい、と思ってるんですけど」

キヌさんは視線をあなたの顔のほうに向け、そしてまた雨を見つめました。

「雨、嫌ですねぇ。さてと、帰りますか…」

キヌさんはそう言うと、畳んでいた傘を身体の前に持ち広げようとしました。そのときあなたはその傘の柄に源次郎と名前が書いてあるのを見つけます。

「源次郎ってご主人のお名前ですか?」

キヌさんはあなたのほうを向き、「ニッ」と笑うと雨の中に歩いて行きました。

あなたは帰りの電車の中でキヌさんとのやりとりを思い出しています。

結婚するまで顔はおろか性格もわからない男と結婚して、それで幸せだったのか…。

愛情がなくても結婚生活ってやっていけるのか…。

そんな結婚で後悔はしていないのか…。

あなたにはわからないことだらけでした。ただ…、あの笑顔だけが印象に残っています。

家に着くと、奥さんがリビングのソファでコーヒーを飲みながらCDを聴いていました。やはり、徳永です。奥さんはあなたに気づくと、力ない声で声をかけてきました。

「おかえりなさい」

あなたも元気のない声で返事をするとそのまま着替えに寝室へ向かいます。あなたが着替えていると電話が鳴るのが聞こえました。奥さんが出たようです。

あなたは着替え終わるとリビングに行きました。奥さんはまだ電話で話しているようでリビングには奥さんのコーヒーだけが置いてありました。あなたは奥さんが座っていた席の向かいのソファに座ります。なにげにスピーカーから流れてくるメロディに耳をかたむけますと、「最後の言い訳」がかかっていました。あなたは一人で苦笑いを浮かべてしまいました。離婚を考えている女が「最後の言い訳」を聞いているのも皮肉なものだ、と思ったからでした。

あなたがメロディに聴き入っていますと、奥さんの電話での話し声が大きくなっていくのがわかりました。詳しい内容までは聞こえませんが、奥さんの声に怒気が含まれているのは確かでした。

あなたはCDをかけたまま、リビングをあとにしました。

翌日、朝から晴天に恵まれあなたは心なしか気分が華やいでました。昨日は、突然雨が降りだしそのまま一晩中降っていました。雨は人の気持ちを落ち込ませます。それだけに晴天があなたの気持ちまでも晴れやかな気分にしたのかもしれません。

そのままの気分で午前の仕事を終え、午後になりいつものように喫茶店に向かって歩いていると、ちょうどキヌさんが店のドアから出て行くのが見えました。あなたは歩きながらキヌさんの後ろ姿を目で追いました。そのときあなたは気づきます。

キヌさんの手には傘が携えられていました。

その日は晴天です。傘を持っている必要はありません。そこで、あなたは昨日の雨宿りの場面を思い出します。昨日の雨は突然の雨でした。あなたが当日の朝のテレビニュースで見た天気予報でも雨の確率はほとんどゼロに近いものでした。実際、昨日は雨が降りだすまで雲ひとつありませんでした。けれど、そのときもキヌさんは傘を持っていました。あなたは印象に残っています。キヌさんが傘を広げて雨の中へ歩いて行くうしろ姿を…。

あなたがキヌさんの歩く後ろ姿を遠目に見ながら喫茶店のドアを開けようとしたとき、キヌさんが躓いて転んだのが見えました。あなたは急ぎ足でキヌさんのところへ駆け寄ります。

「大丈夫ですか?」

あなたが声をかけながら背中に手を回すとキヌさんは恥ずかしそうにお礼の言葉を言いました。そしてあなたの顔を見ると、はにかんだ表情をしました。

「ああ、おたくさんでしたか。ありがとうございます。やっぱり年をとると転びやすくなって…」

キヌさんはふらついた足でどうにか立ち上がり、自分の服をはたいています。あなたはそばに落ちている傘を拾い上げました。

「はい、ご主人です」

あなたが冗談っぽく言いながら手渡すとキヌさんは照れ笑いを浮かべながら傘を手にしました。

「ひとりは寂しいですよ。だからいつも源次郎を持ち歩いてるんです」

「ええ、わかります」

「おたくさん、昨日、愛情がどうしたとか言ってましたよね」

「ええ…」

「あのね。愛情はね、一緒に暮らしていると芽生えるんです。私から言わせると、一緒に暮らす前の愛情なんて屁みたいなものですね」

「クサイってことですか」

あなたは笑いながら応じます。

「それじゃぁ、もう一つの質問ですけど。結婚に縛られて自由がなくなるような気がするんですけど…」

「それは逆ですよ。自由っていうのは、拠点があるからこそ感じるものです。もし、拠点がなかったら自由かどうかもわからないじゃないですか。その拠点が夫であり妻なんです。つまり結婚ですね。私はそう思います」

「はぁ…」

「だいたい…。50年も夫婦やってると愛情なんてありませんよ。あるのは…」

「あるのは…」

「あるのは…、『そばにいる』という状態ですね。私はその状態が大切だと思っていました。それに…、焦らなくても、最後は『そばにいられなく』なりますから。私みたいに」

そう言うとキヌさんは軽くお辞儀をして歩き出しました。あなたはキヌさんの後ろ姿を見つめています。するとキヌさんは数メートル歩いたところで立ち止まり振り返ります。

「あっ、それから…。夫婦は縛られてるものじゃなくて、結ばれてるものですから。それではごきげんよう」

その日は、残業で帰宅時間がいつもより遅くなっていました。あなたが玄関に入ると家の中の電気は消され静まり返り、ただ一部屋リビングだけからわずかな明かりとメロディが漏れていました。

あなたは静かな足取りでリビングに向かいました。リビングに入ると奥さんの頭部だけがソファ越しに見えました。あなたは奥さんに話しかけながら奥さんが座っているソファの横を通り抜け奥さんのほうに振り向きます。と同時に、話しかけるのを止めました。奥さんがソファにもたれて眠っていたからです。疲れているのでしょう。深い眠りについているようでした。

あなたはソファに腰を落とします。ネクタイを緩めため息をつきます。あなたは駅から歩いている間中、昼間のキヌさんの言葉を思い出していました。

あなたは奥さんの寝顔を眺めます。しばらくの間、眺めていました。それからなにとはなしに壁を見渡しました。すると、リビング入口の横に飾ってあるパネルに目が止まりました。パネルにはあなたと奥さんと娘さんが写っています。娘さんが小さい頃近くの公園で撮った写真を大きく引き伸ばしたパネルです。

あなたはパネルを見つめます。……。

次にあなたはテーブルに目をやりました。そこにはA4ほどの用紙とペンが置いてありました。ちょうど奥さんが座っているソファの前に置いてありました。たぶん、奥さんは眠ってしまう前まで、なにかを書いていたのでしょう。

あなたは上半身を伸ばし手に取ります。

用紙は先日も見た「引越し申請書」でした。中を読みますと、引越し先はまだ記入されていませんでした。

新住所:

現住所:神奈川県富士見市横川町3の22の17

あなたは「引越し申請書」をしばらく見つめます。それから奥さんの寝顔を見ました。あなたは考えます。……。

あなたはペンを手にとります。そして「引越し申請書」にゆっくりと丁寧に書き込みました。

新住所:神奈川県富士見市横川町3の22の17

現住所:神奈川県富士見市横川町3の22の17

あなたは「引越し申請書」を元の場所に戻すと、奥さんの寝顔を見つめました。どのくらいぶりでしょう。こんなにしっかりと奥さんの寝顔を見るのは…。そのときのあなたには奥さんの寝顔が安心しきっているように見えました。

これでいいんだよな…。

あなたは吹っ切れた気分になっていました。あなたはゆっくりとソファから立ち上がろうとします。そのとき、スピーカーから聞こえてくる徳永のメロディが耳にとまりました。聞き覚えのあるメロディです。あなたが若い頃、徳永の曲の中でも一番好きだった歌でした。あなたは曲名を思い出そうとしましたが、なかなか頭に思い浮かびません。あなたはプレイヤーの前まで行き、曲順を示しているデジタル表示の数字を確認しました。…10曲目…。

あなたはそばに置いてある徳永のCDジャケットを手に取ります。そして、ジャケットに書いてある10番目の曲名を見ました。あなたは文字を追いながら微かに口元が緩みます。そして、静かにゆっくりと曲名をつぶやいていました。

「僕のそばに」

あなたはこうやって離婚に失敗します。

男と女のラブラブ愛なんて永遠に続くことはありません。あなたの周りを見渡してください。10年、いえ5年の結婚生活を経てもなおラブラブな関係が続いている夫婦はほんの数えるくらいでしょう。そうです。男と女がラブラブな関係でいられる期間なんて人生の長さに比べたら短期間にしかすぎないのです。

では、ラブラブな関係が終わった夫婦は別れてしまうのでしょうか。違います。違うはずです。ラブラブな関係が終わったあとからこそ本当の夫婦がはじまるのです。大切なのは、ラブラブな関係が終わったあとも「一緒にいたい」という気持ちが起こるか、お互いが「そばにいたい」という気持ちが起こるか、です。

まだ、人生の伴侶を決めていないあなた。どうか、いつまでも「そばにいたい」と思える相手を見つけてください。そして是非、結婚に成功してください。

結婚…。

あなたと…、

心にシワを刻みたい。

第18回終了。

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