(11)(12)(13)(14)(15)(16)(17)(18)(あとがき) 女性編
結婚1ヶ月
結婚行事も一通り終わり安堵しているあなた。
あなたは新婚気分を満喫しています。仕事を終えて家に向かうのが待ち遠しくてそしてうれしくて仕方ありません。仕事から帰って来て、マンションの前に立ち止まり自分の部屋の窓に明かりが灯っているのを見ることがなにより幸せなあなたでした。
仕事場では周りの人たちから「よっ、新婚さん」とからかわれることにさえ喜びを感じていたあなたでした。あなたは自分の結婚が「正解」だったことを身を持って感じていました。ただ一つ、奥さんの料理のことを除けば…。
つき合っていた当時、食事はなんども一緒にしました。高級なレストランにも行きましたし庶民的な食堂やラーメン屋にも行きました。そのときはあなたの味覚と奥さんの味覚に違いはありませんでした。あなたが「おいしい」と思った料理は奥さんも同じような感想を持ちました。また、奥さんが「今ひとつ」と感じた料理に対してあなたも同じように感じていました。二人の味に対する嗜好は全く同じであるようにあなたは思っていました。
そんなあなたが最初に「あれ?」と思ったのは新婚旅行から帰って来た翌日でした。
朝、あなたは初めて奥さんの味噌汁を飲みます。ナメコが入ったとろりとした味噌汁でした。あなたは今まで、朝食時にナメコが入った味噌汁を飲んだことはありません。それはあなたのお母さんが「ナメコ入り」味噌汁を作ったことがなかったからです。いえ、これは正しい言い方ではありません。あなたのお母さんも「ナメコ入り」味噌汁を作ったことはありますが、それは夕食時に作る年に数回のことでした。あなたのお母さんは、朝の味噌汁が「ナメコ入り」であったためしは一度もありませんでした。あなたのお母さんが毎朝食卓に出す味噌汁の具はいつもワカメでした。
あなたは四半世紀の間、毎朝飲んでいた味噌汁の味に慣れていました。朝の味噌汁の具は「ワカメ」でなくてはなりせんでした。それでもあなたは奥さんが出した「ナメコ入り」味噌汁をなにも言わずに飲みました。けれど、飲み干したわけではありません。お椀の底のほうに少しだけナメコを残してしまいました。ナメコのヌルリ感を朝食時にはどうしても受け入れられなかったからです。
その翌日、やはり朝の味噌汁は「ナメコ入り」でした。そのときも、あなたはなにも言わず飲みました。けれどやはり「飲み干し」はしませんでした。昨日より少し多めに残しました。
またその翌日、朝の味噌汁はやはり「ナメコ入り」でした。しかも前日、前々日よりナメコの量が多いような気がしました。あなたはもちろん全部を飲み干すことはできませんでした。と言うよりは飲み干す気持ちになれませんでした。
その日の晩ご飯のあとあなたは奥さんに聞こえるともなく独り言のように呟きます。
「明日から…、朝はパンにしようかな…」
あなたの唐突な言葉に奥さんは怪訝な表情をしました。けれどすぐに笑顔になり返事をします。
「ああ、それもいいかもね。それじゃ目玉焼きもつけるわね」
「うれしいなぁ。明日の朝食が楽しみだ」
もしほかの誰かが二人の会話の光景を見ていたなら、楽しそうに会話をしているように感じたでしょう。しかし、あなたの心は楽しいとばかりは言えないものでした。
翌日。
あなたは目が覚めると食卓の椅子に座ります。あなたは、起き掛けの表情をしてはいましたが、実際は頭の細胞は冴え渡っていました。それは昨晩の会話のせいです。あなたは、あなたが「パンにしようかな」と言ったときの奥さんの怪訝そうな表情を気にしていたからです。
あなたが座ってすぐに奥さんが食パンをお皿に乗せて持ってきました。そしてマーガリンとイチゴジャムもあなたの前に置きました。あなたはマーガリンを塗ろうとして戸惑います。パンの焦げ目が弱いのです。これではマーガリンがうまく塗れません。あなたは奥さんのほうを見遣りました。奥さんはガス台の前に立ち、あなたに背中を向け調理をしていました。あなたは手早くマーガリンを塗りジャムを乗せパンを口に運びました。もちろんマーガリンはあまり塗られていません。
しばらくすると、奥さんが目玉焼きを持ってきました。食パンを食べるときにおかずにする目玉焼きはあなたの定番でもあります。あなたにとって食パンと目玉焼きはセットになっているのでした。あなたはお礼の言葉を奥さんにかけます。そしてお箸で目玉焼きの黄身の部分を潰そうとして、そこで一瞬お箸を止めてしまいました。
…黄身が固いのです。
あなたが今まで食べていた目玉焼きは半熟より生っぽい黄身でした。お箸の先で黄色い部分をつつくと中から半液体状の黄身がとろけて出てくる目玉焼きです。あなたは奥さんの視線を感じました。奥さんは調理の片づけをしながらあなたの一挙手一投足に神経を尖らせていたのです。
あなたはなにごともなかったかのように朝食を済ませました。
とにかくこのようにして生活していましたが、あなたはやはりストレスが溜まります。会社の先輩と飲みに行ったとき、つい愚痴もこぼしてしまいます。あなたの相談とも愚痴ともつかない話に、酔った先輩はけしかけます。
「おい、料理は大切だぞぉ。おまえは自分の家庭を持ったんだからおまえ好みの味を奥さんに作らせればいいんだ。男たるものそのくらいできなくて大黒柱の威厳が泣くぞぉ」
あなたは先輩の言葉が身に染みます。
「そうだよな。女房は旦那に合わせるのが本当の妻だよな…」
あなたは奥さんに料理の味について、正直な気持ちを話すことに決めました。
ある日のおかず。その日はカレーライスでした。あなたは奥さんがよそってくれたカレーを見て違和感を持ちます。ひとつひとつのジャガイモが大きいのです。しかも、お肉がサイコロ状なのです。あなたが子供の頃、あなたのお母さんが作ってくれたカレーライスのジャガイモは一辺が2センチくらいの大きさでした。ましてやお肉がサイコロ状の形だったことは一度もありません。
あなたはカレーライスを口に入れながら奥さんに聞きます。
「カレーライスの作り方は誰から習ったの?」
「母よ。うちの母、カレーにはうるさかったから」
あなたは結婚前にグルメを気取って奥さんと食べ歩いた頃を思い出していました。イタ飯、フランス料理、ベトナム料理…。あなたは気づきます。
奥さんとはよく食事に出かけましたが、それらの多くはいつもかしこまった料理でした。いわゆる家庭的な料理は一度もなかったのです。庶民的なお店にも行きましたが、そうした店のメニューもやはり新し物好きや珍しい料理を好むお客さんに出すのに相応しい料理でした。
確かに、あらたまった料理、レストランで食べた料理などプロが作る店で食べた料理の味については二人の感想は一致していました。けれど、家庭で食べるような料理は一度も一緒に食べたことがなかったのです。あなたは結婚して初めて家庭料理の味について奥さんと違いがあることを知りました。
あなたはカレーを半分くらい食べたあとに奥さんに言います。
「このカレー、ちょっと違うんだよね」
「なにが違うの?」
「あのさ、俺が食べていたカレーと違うんだ」
あなたが言うと、奥さんの表情が一瞬こわばったのがわかりました。誰でも、自分が作った料理に難癖をつけられてうれしいはずはありません。奥さんは遠慮しがちながらも反論します。
「でも、カレーは料理の基本中の基本だし。私のお母さんはいつもこういうカレーを作ってたのよ」
奥さんとしては、自分の母親が否定されたように感じたのかもしれません。しかし、あなたが奥さんの作ったカレーを認めてしまうことは、反対に、あなたのお母さんを否定することにつながってしまいます。
あなたはつい言ってしまいます。
「俺はお袋が作っていたカレーが本当のカレーだと思うな」
奥さんは少しあなたを嘗めたような表情で微笑み、諭すように言います。
「あなた、いつまでも親に縛られているのはちょっと問題よ」
あなたはこの奥さんの言いようにも不快感を持ちましたが、それよりも強い憤りを感じたのは奥さんの「人を馬鹿にしたような表情」でした。あなたは今までの鬱憤を晴らしてしまいます。
「あのな、今まで我慢してたけど。あの味噌汁はなんだ。あんなもの味噌汁じゃないぞ。百歩譲って味噌汁だとしてもだよ。あれは、朝っぱらから飲めるしろものじゃないぞ。人が我慢してるのも知らないで」
…よく言いますよね…。売り言葉に買い言葉。
「あなたこそ、なによ。どうして朝ごはんの前に歯を磨かないの? そんな不潔な口の中で味噌汁の味がわかるわけないじゃない」
そうでした。あなたの習慣は、歯を磨くのはご飯のあとでした。それがあなたの育った家庭だったのです。しかし、奥さんの育った家庭環境は違っていました。歯磨きは、朝起きて一番にやる行為でした。
あなたは、奥さんが場違いなことを言い出したことが不愉快極まりないものに感じました。あなたはさらに怒りが募ります。
「そんなこと言うんだったら、なんだ、あのパン」
「パン?」
「そうだよ。食パンの焼き具合だ。あんなの焼いたうちに入らないだろ。あれじゃ、マーガリンなんか塗れないじゃないか」
「食パンはね。焦げすぎると味を損なうのよ。それより、朝食をパジャマで食べるのは簡便してよね。だらしないの、嫌いなの。私」
「自分の家でくつろいだ格好でご飯を食べてどこが悪いんだ。家はな、くつろぐためにあるんだよ」
「あなた、親しき仲にも礼儀あり、って知らないの? 冗談じゃないわ」
奥さんは話しながら声が上ずり身体が震えていました。ヒステリックに叫ぶと勢いよく立ち上がりそのまま外に出て行ってしまいました。
あなたはあなたで怒りが収まらずスプーンをテーブルに投げつけ部屋に入ってしまいます。
その夜、奥さんは帰宅することはありませんでした。
翌日、あなたはちらかった台所のテーブルを横目に見ながら会社に出勤しました。人間は中途半端に怒りを発したままだと、スッキリするどころか怒りが頭の中で渦巻いてしまいます。あなたはその日、一日中気分が晴れませんでした。
仕事を終え、あなたは足取り重く家路に向かいます。マンションの外から部屋の窓を見ますが、電気は点いていません。あなたは鍵を開け、玄関に入ります。真っ暗な玄関を通り、外の明かりが僅かに照らしている台所に入ります。あなたは電気を点けました。そこには、あなたが朝出かけるときに見た光景がそのまま残っていました。
あなたはしばらく立ち尽くしたあと、思います。
もう、無理だな。
あなたはこうやって結婚生活に失敗します。
結婚生活は日常です。高級レストランで一緒に食事をすることは非日常の世界です。非日常の世界でどれだけ感覚が同じでも、日常生活の中で感覚が違うなら結婚生活がうまくいくわけがありません。日常生活において欠かせない食事という風景、そこでの違いを「たったそれくらい」と思うなかれ! 夫婦が大喧嘩をするときって、些細なきっかけから始まるのがほとんどです。
第12回終了。